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人物と古典に学ぶ ~渋沢栄一~

池田 一義 氏による基調講演

株式会社埼玉りそな銀行取締役会長

埼玉県商工会議所連合会会長

さいたま商工会議所会頭

渋沢栄一とは(1840~1931年)

「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一は天保11(1840)年、武蔵国榛沢郡血洗島(ちあらいじま)村(現在の埼玉県深谷市)に生まれました。

生家は農家で、麦作のほか養蚕や藍玉の製造販売を手掛けていました。

栄一は幼い頃から家業に励んだほか、従兄の尾高惇忠に『論語』をはじめとする漢籍を学びました。尾高から尊王攘夷思想の影響を受けた栄一は、同志とともに高崎城襲撃、横浜外国人居留地焼き打ちを計画しましたが、直前に中止します。

元治元(1864)年、栄一は一橋家に仕えることになり、当主・慶喜が将軍となったため幕臣になります。慶応3(1867)年、パリ万国博覧会の幕府使節随員となり、徳川昭武(あきたけ)に従って渡欧。ヨーロッパの社会経済制度を見聞し、日本の近代化の必要性を痛感しました。

維新後帰国し、明治新政府に出仕した後、実業家として幅広く活躍します。日本初となる銀行、鉄道やガスといった様々な会社を設立・育成し、その数は生涯で約500と言われています。また、学校や病院といった約600の社会事業に携わりました。

明治42(1909)年、69歳になった栄一は実業の第一線から退き、大正5(1916)年には完全に引退します。以後の栄一は各種社会事業や民間外交にひときわ注力しました。大正15(1923)年から数年にわたり、毎年第一次世界大戦の終結日である11月11日にラジオ放送で平和を訴える演説を行いました。また、日本国際児童親善会を設立し、アメリカとの「友情の人形」の交換を主導しました。これらの国際平和への貢献が評価され、栄一は2度にわたってノーベル平和賞の候補になっています。

昭和6(1931)年11月11日、栄一は東京・飛鳥山の自邸で91歳の生涯を閉じました。

商工会議所の設立を主導し、初代会頭に

渋沢栄一は東京商工会議所の設立を日本の実業界の地位を向上させる好機と捉えた。「設立については実業界の問題を多数の人々によって相談して公平無私に我が国商工業の発展を図らなければならない」と考え、海外視察の経験がある大倉喜八郎をはじめとした7名の創立発起人らとともに準備を進め、1878(明治11)年3月に東京商工会議所が誕生した。初代会頭に就任した渋沢栄一は38才であった。

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